新田義貞をめぐる旅~福井県新田塚,藤島神社の旅
先日新田義貞が鎌倉幕府を倒すために立ち上がった新田荘に行ってみた。
参考: 新田義貞をめぐる~太田市の旅
今度は新田義貞最期の地となってしまった藤島の戦いの舞台に行ってみた。
登場人物
新田義貞(1301~1338)
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新田義貞像(藤島神社蔵)
https://ja.wikipedia.org/wiki/新田義貞
1333年: 決起してわずか15日で鎌倉幕府を滅ぼす。
1338年: 藤島城の救援を向かう最中、斯波高経隊と衝突し、灯明寺畷にて自刃
参考: 藤島の戦い
新田塚駅といった駅がえちぜん鉄道にあるのでここで下車。
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江戸時代にこの辺りで新田義貞の兜が見つかった事から
福井藩主松平光通によって新田義貞戦死の地と認定し、
この辺りを「新田塚」と命名したとの事
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太田市にもあったが、新田氏の家紋「一引両」と燈明寺があって
中には「新田義貞戦死此所」の石碑が・・・
藤島城へ救援に向かう途中ここで斯波高経と衝突した。奮戦するも
義貞が乗っていた馬がぬかるみにハマり、落馬してもはやここまでと
首を刎ねて自刃し果てた。なんともあっけない・・・
現在はぬかるみとか見られなかったが、地名に畷とあった事から
この辺りは田んぼで囲まれていたのだろう、、、
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翌日福井駅で自転車を借りて、足羽山にある藤島神社へ
燈明寺畷にて自刃した新田義貞は神格化され、今でも福井市民に慕われている。
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本殿の隣には新田義貞関連の資料が見れた。
新田義貞といえばこの肖像画!!
下には燈明寺に落ちていた義貞の兜も。
この時代の兜って戦国時代のように煌びやかではなく質素だ。
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稲村ヶ崎から太刀を投げ捨て龍神に鎌倉に上陸を誓願する義貞の掛け軸もあった。
参考: 稲村ヶ崎での奇跡
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この新田義貞の掛け軸絵を見た事がなく、これが見れたのが一番嬉しかった。
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まとめ
今回は燈明寺畷の新田義貞戦死の地と藤島神社に訪れた。
鎌倉幕府を倒すといった大金星をあげたのにも関わらず、
最期はなんとも呆気ない。しかし足羽山に藤島神社が
建立されている背景から太田市出身ながら福井市民にも
愛されている武将である事がわかった。
次は新田義貞が救いに行けなかった藤島城跡や称名寺に行ってみたい。