鎌倉の旅〜鎌倉幕府配下のお墓,動乱編
鎌倉の旅~鎌倉殿と幕府の最期編はこちら!!
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にて鎌倉幕府の歴史に興味を持った筆者
駅で自転車をレンタルして、いざ鎌倉!!
1.法華堂
ここ法華堂はいろんなものが凝縮された場所で、
まず鎌倉殿の13人の主役の2代執権の北条義時が供養されている。
この近くに初代鎌倉殿の源頼朝のお墓があり、どちらも姉の北条政子によって
供養されたといわれている。
義時の方が頼朝より低い所に供養されていたが、政子が身分を重んじて
鎌倉殿の夫より低い所に弟義時を供養したのだろうか。
北条義時法華堂の上にはさらにお墓があった。
毛利季光(1202~1247)
大江広元の四男で、安芸毛利氏の祖を築く。
宝治合戦にて三浦義村の娘が妻だったことから三浦氏側につき、ここ法華堂にて自害
引用先:https://ja.wikipedia.org/wiki/毛利季光
大江広元(1148~1225)
13人の合議制メンバーの一人で、鎌倉幕府の公文所(政所)初代別当
執権義時より高い官職を持っていた。
引用先:https://ja.wikipedia.org/wiki/大江広元
島津忠久(1179~1227)
奥州合戦の功績で、頼朝に薩摩の守護職をもらった薩摩島津氏の祖
引用先:https://ja.wikipedia.org/wiki/島津忠久
この三者の方が義時よりも頼朝よりも崇め奉っていることを暗示しているのだろうか。
三浦一族滅亡の地
1247年 5代執権北条時頼の時に起こった安達氏と三浦氏の内紛である。
和平交渉中だった三浦屋敷に安達氏の急襲を受け抵抗も虚しく三浦一族は
ここで自害して滅亡することとなった。
参考:https://ja.wikipedia.org/wiki/宝治合戦
2. 畠山重保の墓(-1205)
畠山重忠の嫡男で、平賀朝雅と重保が酒宴で口論になったことがきっかけで畠山父子に謀反の目が向けられた。
無実の証明をするために重忠より先に鎌倉に出立したが由比ヶ浜にて時政の命令を受けた三浦義村によって
斬殺された。その後二俣川の戦いにて父重忠も北条氏によって討たれた(畠山重忠の乱)
参考: 畠山重忠をめぐる旅~二俣川の戦い
3.和田塚
和田義盛(1147~1213)
鎌倉幕府の初代侍所別当
引用先:https://ja.wikipedia.org/wiki/和田義盛
江ノ電の鎌倉の隣の駅に和田塚駅というのがある。地名から分かるように
1213年に起こった和田合戦で散った和田義盛はじめ和田一族のお墓があった。
参考: https://ja.wikipedia.org/wiki/和田合戦
鎌倉幕府巡りはこれにて終了。
鎌倉で食べた鎌倉チーズハンバーグ。肉厚もあって食べごたいがあり、肉汁も溢れて
こんなに美味いハンバーグを食べたの初めてだ。
まとめ
ここでは鎌倉巡りの旅のうち、幕府にゆかりある人物のお墓巡りと鎌倉幕府内部で起こった動乱を
めぐる旅日記を綴った。1日では巡れないほど鎌倉には沢山のお寺があるので、また計画して
今回の旅で行けなかった歴史巡りをする必要があるだろう。
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