武田勝頼をめぐる旅~甲斐大和,天目山

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武田勝頼(1546~1582)

高野山持明院蔵 引用

https://ja.wikipedia.org/wiki/武田勝頼

武田信玄の4男で、母は諏訪御前

4男だったが、兄達は出家や逝去していた為、1573年の武田信玄の死に伴い家督を受け継ぐことになった。

筆者は今回武田氏が滅亡した地である天目山に行って武田勝頼含む武田氏がどのような最期を迎えたのかを

巡ってきたので紹介する。

東京から中央本線に乗る事2時間半ほどかけて甲斐大和に下車

甲斐大和駅前には今回の主役である凛々しい武田勝頼像が置かれていた。

駅から天目山を登ること20分で天目山の戦いの古戦場跡があった。

ここ四郎作古戦場には勝頼によって謹慎処分された小宮山内膳が

主君勝頼の危機を救う為に謹慎処分を破って駆けつけた場所である。

ここで勝頼を逃すために織田徳川軍を迎え撃ち、殉死したとの事。

参考: http://www.zephyr.dti.ne.jp/~bushi/siseki/siroutsukuri.htm

更に登ると鳥居畑古戦場が武田勝頼最期の古戦場といわれている。

武田100弱vs織田徳川4000と多勢に無勢だったとはいえ織田軍を

何度か撤退させるほどそこそこの激戦地だった。

勝頼は武勇に優れていたといわれており、その証でもあるだろう。

今回のメインである景徳院には武田勝頼公廟所が建てられていた。

ここ景徳院の山門を建立したのは、あの徳川家康との事

この山門は当時から現存しているので、400年以上経っている。

武田家の家紋の武田菱も添えられていて、家康が武田家に敬意を

表している証と筆者は思えた。

景徳院の本殿も中々立派だった。旅の無事を祈って後にした。

本殿から少し下った所に武田勝頼と正室北条の方,嫡男信勝が切腹したといわれる

生害石が供えられていた。

(左)武田勝頼の生害石           (右)北条の方の生害石

武田勝頼 享年37(数え年)

北条の方は北条氏康の6女。享年19とあまりに早逝すぎる。

武田信勝(1567~1582)

高野山持明院蔵 引用

https://ja.wikipedia.org/wiki/武田信勝

武田勝頼の嫡男で生母は龍勝院(信長の妹)

この天目山の戦いが初陣であり最期の戦いになった。

享年16

甲将殿の裏にはお三方のお墓が供えられていた。

左から信勝,中央が勝頼,右が北条の方の順に並んでいた。

まとめ

今回は甲斐大和にて武田氏最期の地である天目山に行ってみた。最期の地ということもあって姫ヶ淵や首洗池

といった地名で現代でも当時の悲惨さを物語っていた。

ただ武田氏の歴史が好きなので武田氏最期の地が訪れたかったので大変満足だ。

時間がなく天目山山頂付近の栖雲寺には行けなかったので、次はその辺りまで巡ってみたい。

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