新田義貞をめぐる~太田市の旅

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最近南北朝時代の歴史を追うのにハマっている筆者

今回は鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞について追ってみる事にした。

新田義貞(1301~1338)            脇屋義助(1305~1342)

新田義貞像(藤島神社蔵)                菊池容斎画『前賢故実』より

引用元
https://ja.wikipedia.org/wiki/新田義貞
https://ja.wikipedia.org/wiki/脇屋義助

太田駅から降りてすぐに新田義貞と実弟の脇屋義助がお出迎え!!

新田義貞は1301年にここ太田市で生まれた。

新田義貞の誕生の地については諸説あるがここに石碑が建てられていた。

新田義貞が青年期に過ごした反町館も跡地が残っていた。

義貞はここから生品神社に向かって出発した。

反町館跡からおよそ2kmのところに生品神社があった。

神社の外には新田義貞が鎌倉攻めの際に稲村ヶ崎に黄金の刀を投げ入れ

ると潮が引き鎌倉への侵攻ルートを作ったといわれる有名な場面の像があった。

稲村ヶ崎からの鎌倉攻め

https://rekishiru.site/archives/6948

新田義貞は1333年 5月8日 後醍醐天皇の幕府追討の綸旨に従い

ここ生品神社で結集し挙兵したとの事。集まったのはおよそ150騎だった。

しかし鎌倉入りした5月18日では5000騎ほどにまで膨れ上がっていたとのこと。

本殿の右に見える御神木に錦の御旗を掲げ兵をかき集めたとの事。

本殿側に義貞が立って士気を鼓舞したことだろう。

この神社は平将門を祀っているとの伝説もある神社らしい。

まとめ

今回は太田市で新田義貞の故郷の新田荘を訪れてみたが、田んぼに囲まれていて筆者の故郷にも結構似ていた。

だからか義貞に変な親近感も湧いた。

こんな田舎から挙兵しておよそ2週間で、衰退しきっていたとはいえまだまだ巨大な鎌倉幕府を滅ぼすといった

大金星をあげた新田義貞の功績は凄いし、今回の旅で新田義貞について知り益々好きになった。

今度は鎌倉幕府を滅亡した後の新田義貞の出来事について追ってみたいと思う。

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