尼子氏をめぐる旅~安来市 月山富田城
最近尼子氏の歴史に興味を持った筆者は尼子氏の居城があった
安来市の月山富田城の跡地に訪れてみた。
主な登場人物
1.尼子経久(1458~1541)
尼子経久肖像(洞光寺蔵)
https://ja.wikipedia.org/wiki/尼子経久
謀将といわれた11ヶ国の太守
2.尼子国久(1492~1554)
尼子国久像(信長の野望)
尼子経久の次男
新宮党の党首として率いるが、尼子晴久のよって一族が粛清される
3.塩冶興久(1497~1534)
尼子経久の三男
父経久に反旗を掲げ反乱を起こすも失敗し、備後に逃れ自害。
4.尼子晴久(1514~1561)
尼子晴久像(山口県立山口博物館蔵)
https://ja.wikipedia.org/wiki/尼子晴久
尼子政久の嫡男で、祖父は尼子経久で24歳の時経久から家督を継ぐ
父の政久: 1518年 桜井家の反乱の時に死亡。
18ヶ国まで広げ尼子家の最盛期を迎える。
毛利元就を攻め大敗を喫したり、毛利家の策略にのって新宮党の国久一族を滅ぼすことで
尼子氏衰退の一途のきっかけを招く。
5.尼子義久(1540~1610)
尼子義久(信長の野望)
https://nobunaga-kouryaku.com/shinsei/database/samurai/134
尼子晴久の嫡男
1566の年第二次月山富田城の戦いにて毛利家に降伏
尼子家最後の当主
家系図
安来駅に到着
駅からバスで40分
左には尼子氏の居城の月山富田城と右には尼子経久があった。
尼子経久のこの銅像は迫力があってかっこいい。
大河ドラマ「毛利元就」で尼子経久を演じていた緒形拳さんが好きで
ずっと見てると緒形拳さんに似て見えてきた・・・w
第1次月山富田城の戦いで敵陣のいる方向を指している。
月山富田城跡をこれから登山した。
麓に早速経久の三男の塩冶 興久のお墓があった。
興久は経久に反乱を起こしたが敗れ備後(広島東部)方面に逃れ自害したはずだが、
ここ月山富田城にもお墓があった。
月山の中腹には山中御殿といった月山富田城の城下町があったといわれていた場所である。
頂上まであと少し・・・・
山中御殿で尼子家の家紋「平四つ目結」発見!!
1542年~1543年に大内,毛利氏連合軍と1565年~1566年には毛利氏が大軍勢で
攻めてきたが、いずれも力攻めでは落とせなかった月山富田城。
こんな要塞みたいな居城は力攻めでは落とせないだろう。
今まで行ったお城の中で最も難攻不落なお城だとこの図柄を見て思った。
七曲坂の途中から見た山中御殿
これも経久が攻めてにくいように軸索の登り坂が続いてた。
確かに抜け目ない謀将らしい作りだなと思った反面、
尼子配下とかも毎回この坂道を登って報連相していたと考えると
たまったもんじゃない。
汗だくになりながら、なんとか本丸へ到着。
山も海も見え絶景だった。これを見るだけでも登った甲斐があった。
第一次の合戦にて大内氏らが布陣していたのが、左に見える京羅木山
真ん中には中海も見えていた。
経久らはこの風景をいつも見ていたのだろうか・・・最高すぎる!!
本丸の奥には勝日高守神社は尼子氏の守り神を祀る神社である。
またかの有名な山中鹿之介の名言「願わくば、我に七難八苦を与え給え」と
願っても違和感のないことから鹿之介ゆかりの神社とも知られている。
月山富田城を下山して尼子経久と経久の父清貞の菩提寺 洞光寺へ
この赤瓦なのが意外だった。安来市まで来るとこの赤瓦の建物が建てて来て
これを見て回るのも面白い。
寺内には親子隣同士で供養されていた。
まとめ
今回の旅で尼子氏の居城で難攻不落の月山富田城に行ってみた。
尼子経久が強かったのはこんな盤石なお城があった事にある。
こんな要塞みたいなお城は、あの戦上手だった毛利元就が2度も攻めて
力ずくで落とせなかったわけがよく分かった。